おいさん、おばさんから聞いた、今も尾呂志に残るよもやま話。
自然と仲良うしてきた山里やから、まあ、いろんなことがあったんさ。
【田植え】
田植えの時には学校を休めたんさ。子どもも大人に交じって仕事をしたんさ。
かきまぜや、おさすり、ヨモギ餅・・・田植えの時のごちそうおいしかったよ。女の人はぶどう酒を飲みやったな〜。
田植えも機械使うようになって楽になったんやけど、みんなでやった田植えは懐かしいわ。尾呂志学園では、今でも子どもたちが地域の田んぼで昔ながらの手間暇かけた米づくりをやりやる。収穫したお米は、地域と学校が一緒になってやる運動会や文化祭の景品にしたり、販売したりで、人気があるんさ。
【献上米】
昭和17年のことやけど、百年に一度の行事で、伊勢神宮から献上米の依頼があったんさ。尾呂志で2軒の農家が作ったんやけど、その時のお田植え式はすごかったんや。一人は烏帽子を被り、女子青年団がすげ笠を被って、田植え唄に合わせて踊ったん。子どもたちの代表も田植えをしたんさ。地域の一大事やったな。
【田んぼの呼び名】
田んぼと言っても場所によっては呼び名があったんさ。一つの農家の一番大きな田んぼは「おせばち」。田んぼの周辺の草刈りを「ぐる刈り」。苗代のことを「のじと」。水を田んぼから田んぼへ流すことを「田ごし」。水路の維持補修の作業を「溝せぎ」。稲わらを保存するために積む「ねぼし」。他には布を編み火をつけて虫を追い払う「ぶとくすべ」。なんて言うものもあったんさ。
【郷土の新聞 尾呂志版発見!】
昭和24年3月5日に創刊された「郷土の新聞 南部ローカル」尾呂志版がこの度発見されました。(B4サイズ 4ページ)
紙面は黄色く変色されていますが、できるだけ見やすくなるように、それとPDFデータでダウンロードして見られ、プリントしやすいようにA4版に縮小したデータをアップしました。
当時のことにご興味のある方は、ぜひダウンロードしてじっくりとお読みください。(PDFデータ:2.6MB)
【弥九郎と犬】
紀州犬発祥の地 御浜町阪本 そこに残る弥九郎といふ猟人と狼(のちに紀州犬となる)の物語です。
紀州犬は、この物語に出てくる狼の血を引いていると言われています。
阪本にある岩洞院というお寺に弥九郎の墓が現存しています。
【紙人形(着せ替え人形)】
ものが今程豊かではなかった頃、子どもたちは野山、田畑で草花や水(川)、木々や山野草、木の実、昆虫や魚などで遊ぶことが多かった頃、女の子は写真のような紙人形を自分たちで作って遊んだんよ。
今は、なんでもお金を出せば揃ってしまうけど、いろんなことを考えながら自分たちでつくった人形で楽しく着せ替えをして遊んだんやよ。
帽子やバックなんかも作っておしゃれを楽しんだんやよ。
※写真は当時のことを思い出して復元していただきました。
【昔の遊び】
魚や鳥を捕って遊んだよ。魚を捕る水中鉄砲は勢いがすごかったね。かちわりで魚を捕ったりもしたよ。それだけ魚がいっぱいあったんやな。こぶと、からねこ、竹かご、パチンコで鳥も捕ったよ。こぶとはギロチン、からねこは生け捕りする道具。今やったら禁止されるような残酷な遊びやな。仕掛けは上級生が教えてくれてよ。何でも手作りや。
こうやって大人になる準備をしやったんかいね。
【金堀の四鬼の窟(かなほりのしきのいわや)】
上野地区の金堀の南の谷を100mほど登ると四鬼の窟という洞窟があります。
昔この窟に鬼が住んで村の子供たちをさらっていくので、人々はたいそう恐ろしく不安でたまりませんでした。
時に田村麻呂将軍は木本の鬼ヶ城で鬼の大将や大勢の手下を滅ぼしてから、尾呂志の鬼も退治しようと甲冑に身を固めてから黒いたくましい馬に乗って西の原の針金橋の上手まできました。
馬をとめて休んでいると丁度村人が通りかかったので将軍は「この地方に鬼がすんでいるとのことであるが、お前たちはその居場所をしらないか」と尋ねたそうです。村人は「ここから四、五町登って行きますと道の右側の上手に窟があります。そこには四頭の鬼が住んでいるとのことでございます」と聞き、退治に行きました。
鬼退治にまつわる地名が残っており、武器を砥石で研いだ場所は「刃研(はっとぎ)」、鬼があぐらをかいていた場所を「オチヤグラ」、矢の落ちたところを「矢原(矢洗)」、鬼が太刀を受け損じて鬼の首が中高く跳び、落ちる拍子に執念深く将軍目掛けて飛び付いたが、いち早く身をかわしたので傍らの木の根に噛み付いた。鬼が噛み付いた場所を今でも「歯ごもり(葉籠)」と呼ばれています。
ここは、鉱山に従事する人々を異界の人、すなわち鬼と捉え鬼伝説が生まれたのかもしれません。
金堀の鉱脈は紀和鉱山の鉱脈と通じるものがあると思われ、金堀という地名もここからついたものと思われます。